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【アラベスク】  第18章 恋愛少女



第3節 女同士 [13]




「やりたい事って、いつ見つかるかなんてわからないものね。自分がこんな道に進むとは思わなかった」
 中退してまで別の大学へ進むだなんて、そう簡単にできる事ではないと思う。受験勉強だって、やっぱりやり直しなんだろうか? 香りの大学に入るんだったら、どんな受験勉強するのかな?
 ぼんやりと想像してみる。
 香りの大学。でも、そんな大学は聞いた事も無い。香りの勉強を専攻できる大学でもあるのだろうか? だとしたらどんな勉強? あ、でもさっき智論さん、有機化学がどうとかって言ってたから。
 美鶴は目を丸くする。
 科学?
「智論さん」
「なぁに?」
「智論さんって、大学で何の勉強をしてるんですか?」
「私、今は理学部に通ってるの」
「り」
 理学部? って、何?
「そこが、香りの勉強をするところなんですか?」
 ポカンと呆けたような表情に智論はふふっと声を漏らし、そうして少し前のめりになって右手の肘をついた。そのまま頬杖をつく。
「香りの勉強をするようなところではないと思うわ」
「え? でも智論さん、今、香りの勉強をしてるって」
 ワケがわからず混乱する美鶴を余所に、智論は窓の外へ視線を向ける。緑の眩しい季節。木漏れ陽と共に揺れる若葉は気紛(きまぐ)れで、何も考えていなかったあの頃の自分と重なる。
「香りってね、奥が深いのよ」
 そんな事も知らずに、智論はあの日、気楽な気持ちで夏期講座を受けた。





 外部からの講師を招いた特別講義で、一週間だけのモノだった。パソコン講習や英会話教室みたいな講義もあった。講義というよりも講座といった方がいいのかもしれない。市民文化会館などで主婦向けに開催されているカルチャー教室にもよく似ているカンジだ。
 アロマテラピーという名前に惹かれて寄ってくる女子大生で、最初の講義は席がいっぱいだった。難しい講釈などもなく、いきなり香料を手に取らせてくれた。
 次々と香りの液体を使い、いろいろにブレンドしてオリジナルの香りを作る事ができた。自分専用の香水ができたと、学生たちは喜んでいた。智論も楽しいと思った。だが、それだけでは終わらなかった。
 ほとんどの学生が、アロマテラピーという言葉に惹かれて受講していた。アロマテラピーという言葉は、占星術やパティシエといった単語と同じように女性の興味を惹きやすい。智論も、そのような女性特有の興味を持っていなかったワケではない。ただ彼女の受講には、もっと別の意味もあった。
 香りは、人の心をコントロールする。
 そんな言葉を、ネットか雑誌で読んだような気がする。
 傷ついた心、落ち込んだ心を、香りが癒してくれる場合もある。
 傷ついた心。
 脳裏に、幼馴染の顔が浮かんだ。
 父親や母親や、愛した人の態度や言葉に傷つき、世間に背を向けてしまった青年。高校卒業後も定職には就かず、富丘という場所の屋敷で怠惰な毎日を送る男性。
 彼を癒す事は、できるのだろうか?
 たかが香り一つで?
 過大な期待などしてはいけないと思った。だが香りが慎二にとって、少なからず重要な要素である事には違いないと、智論は思っていた。



「霞流さんにとって?」
 問い返す美鶴を見ぬまま、智論は物思いにでも耽るかのようにぼんやりと口を開く。
「慎二は、香りに惹かれたのかもしれないから」
「え? 香りに?」



 一週間、実際には月曜日から金曜日までだから五日間の講義。その最終日に講師の女性は、調香師のタマゴを特別講師として呼んだと言って、紹介してくれた。まだ若手だが、これから伸びる可能性のある人物で、香りを扱う仕事がどういうものなのかを語ってもらおうという事だった。学生の作った香りも簡単にだが批評してくれるという事で、生徒たちは喜び勇んだ。
 プロの調香師に自分の作った香水を試してもらえるなんて、女性にとっては夢のような話だ。ウキウキとしながら席に座る女子学生たちの前に、若い女性が登場した。その姿に、智論は唖然と言葉を失った。
 桐井(きりい)愛華(まなか)だった。
 彼女の母親はフランスの有名香水ブランドの重役だ。彼女自身も休暇はフランスで過ごす事が多いと周囲に漏らしていた。高校時代に聞いた事がある。料理や自然についていろいろと同級生にも語っていたようだが、特に香りについての話をよく口にするというような噂も聞いた事がある。噂でも聞いたし、慎二からも聞いた事がある。
「彼女の夢は、調香師なんだ」
 そう口にする慎二の顔には、まるで自分の夢でも語るかのような恍惚とした表情が浮かんでいた。
「フランスの片田舎に、調香師の集う村だか集落だかがあってね。彼女は五歳の時から出入りしているらしい」
 そんな話を思い出しながら、智論は一人一人と言葉を交わす愛華の顔を凝視していた。
 近づいてくると、芳香が漂ってきた。甘く、それでいて気品もあり、上品で落ち着いていて、でも老けているワケではない。華やかさも兼ね備えている香りは、将来を有望視された存在として周囲から羨望の眼差しを受ける彼女にはお似合いだと思った。
 愛華は、智論と目が合うと、あらっと小首を傾げた。
「あなたは」
 智論は小さく会釈をした。愛華もそれに習い、そうして傍に寄ってきた。
「彼、元気?」
 開口一番、そう聞いてきた。
「はい」
 答える声を必死に整えようとする。震えているなどとは、知られたくはない。周囲の学生は、愛華からの批評に一喜一憂して騒がしかった。二人の会話に耳を傾ける者などいなかった。
 智論の態度に愛華は曖昧な笑みを浮かべ、そうして手元の小瓶に目を移した。
「これ、あなたが調香したの?」
「はい」
「へぇ」
 蓋の裏側を少しだけ鼻に近づける。
「ふぅん、良い香りね」
 その後にそっと付け足した。
「慎二が好みそうな香りだわ」
 全身の血液が逆流するかのような錯覚に襲われた。







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